ヒューマンハイム月島 外観
ヒューマンハイム月島

 これまでの〔石川島〕に関する幕府の公文書を、改めて杉討してみますと、人体つぎのような状況が現われてきます。〔府内沿革図凛〕ではこの解説の最初の項で見たように、いきなり寛永3年(1626)に約1万7千坪の「寄洲」が、埋敷地として石川にあたえられたことだけが載され、その他の事柄にはふれていません。これに解説をつけ加えると、江戸の諸々の地誌にあるように、寛永3年当時すでに相当な而積を持つ、癩敷地として実川的な鎧島のような状況を示しています。竟政重修諸家譜では、「石川鳥創牛記」の項で兄たように、洽革図言でいう片敷地をもらう前年の寛永2年に船千役に就任したことが記されていますが、その屋敷地については何も害かれていません。それはこの史料が「系図集」だという性格からすれば、いわば当然のことだったといえます。この石川家掟の系図の記事とは別の記事は、つまり幕府編集の゛人事異動”の記録では、系図とは違って、寛永9年(1632)8月19日に船手役に就任しています。そしてこの文書にも当然のこと々から、〔島〕に関する事柄は一切ありません。このように性恪の異なる公文書から、総合的に事の実態を確認することは、かなり困難なことがこの〔石川島〕の実例でおわかりのことと思います。それはともあれ、このような状況のもとに占称あるいは俗称の島が、八左衛門殿島→石川島と呼ばれるようになったわけです。なお初期の旗本の印敷地の一般的な「拝領」のしかたは、郡府はその場所と積の指定だけを行ない、実際の宅地造成は「拝餉」した大名・旗本が自前で工事するのが涌例でした。これは武家に限らず例えば後の〔京僑扁〕にも取りあげるように霖巌築地本願寺といった与院や、佃島で代表される庶民の居住地の場介も、それぞれ「拝領」した者が宅地造成をしました。石川は船于になると同時に加増され、四千五石の旗本になったことは前に兄たとおりですが、このクラスの旗本がいくら「寄洲」とはいえ、人名屎敷並みの而積の屎敷地をもらった一当然自前で宅地造成しなければならなかった。ということは僕襲の家禄とは別に、船役の役料(職務給)が多かったことを物語っています。それは「川陥創生記」の項の次の経歴中、人坂佃村出身の人々に対して、簒府が正式に〔土地〕を与えたのは、石川島が出来てから約12年正保元年のことでした。しかし町えられたといっても、これまでに見てきたように、場所と面積を指定しただけでしたから。佃村の人々は自費で寄洲を築立てて、本式の島を造り佃島と命名しました。史料によってはいろいろな寸法が紹介されていますが、やはりここでは〔府内沿革図書〕にあるように8,550坪説をとることにします。そしてそれは、川絵のように中央に水路が通り二つの街郭があるように造成されたものでした。この水路は外海の波浪から舟付き場を守る港の役割をはたすものとして計画され、実現したものと考えられます。その後、文化5年(1808)に面積が増えるという小さな変化がありましたが、軍川だった石川島と並んで佃島は漁業基地の役訓を果しながら、現在の〔月島地区〕の原形をかたちづくって来たのです。それにしても、この石川島・佃島とも、潮の満干のたびに、見え隠れする寄洲に、どこから築き立て川の上砂を確保して、それをどのように連搬して、築き立てをやったのでしょうか。そのような人工鳥造成に関する資料は、残念ながら現在では全く残されてはいません。家康が汀戸に米てから、秀忠・家光の三代約50年かけて、今もその遺構の一部が残る汪戸城が建設されました。城郭建設という条件に限れば、江戸城を完成させるために外郭の築造が発令されたのが寛永13年正月、竣工が同年の7月ですから、石川島はその10年狗に出来ていますし、佃島がこの工事を利用したとすると、少し時間がたちすぎてしまいます。強いて建築にこだわるとすると寛永21年の赤坂兄附付近の堀の工事または、現在の皇居の一部に西丸土橋」が傾斜したのを修築する工事の残土かもしれないという想像も働きます。いまは種々の建設工事、再開発などで掘り出された砂は、産業廃棄物の横綱的な存在で、その場にいるのが実情です。しかし初期の江戸では、日本文化史上はじめての臨海都建設が進められた現場でしたから、低湿地の完全な陸地化のためには、あらゆる砂(火事場の焼け土なども含む)は、その唯地の安定化のための最良の資源だったわけで、余分な土といった考え方は全くなかった時代でした。このような条件を考えますと、石川島も佃島もその築き上砂を、どのように于したのかに大きな関心が向けられるのです。なお寛永21に改元されます。ですから佃島の保元年2月成立説は寛永21年の事柄だったわけです。