船于役に天保10年3月24日御小納戸より、熊倉小野右衛門同様之儀に於伊勢守宅御役被召放、小普請入閉門を命じられた長谷蔵がいます。この平蔵は石川島に人足寄場を設置したので、池波正太郎『鬼犯科帳』でおなじみの辰蔵身であることは、いうまでもありません。熊倉某の事件で座しなければ、辰蔵改め平蔵は父親ゆかりの石川島に船手役を勤めていたと思われます。石川島の役割とは、改めて現在の〔月島地区〕の原点である石川鳥の役害を考えてみることにしましょう。前出の船奉行・船手になった旗木の経歴をくわしくみると、その職務のために与えられた崖敷の配置を検討しまずと、石川島は江戸湊防衛の基地だったことがわかります。〔月島地区〕の説明のはじめから。〔島〕を離れて側の事情ばかり述べる形になっているのですが。波問に見え隠れする寄洲を築立てて、人の住める島を造ることには、それなりの理由があったわけですから、ここではどうしても“本上”側の事情にふれておく必要があるのです。前に述ぺた武州豊嶋郡江庄図(以下「竟永江戸」と呼びます)の一部を元にして作ったものです。この時期的な範闘は徳川の江戸になってから、最初に汀戸前辰の沖合いを埋め立てて江戸湊を形成させた時のものです。この図の範囲の変遷をおおまかに述ぺますと中の鎖紡の位置が中止以来の江戸前島の海岸線。鎖線から破線の闘の細長い地区が第11期の埋立地です(この埋立地については徊に改めてとりあげます)。そして波線から現亀島川川筋のところまでが江戸時代中難から「八町堀」と呼ばれました。これも八町堀と同じく江戸時代中期から昭和までその名が続きました。
閔で見るような現亀島川川筋を中心とした水面の広さは、地区もまだ埋め立てが続いている状態を示しているものとして“読みとる”ことができます。右端の「二つまた」「新堀」の水面が日本橋川の河川部です。そしてた端の「八町堀舟入」が港湾部、江戸の初期に築造された防備施設でした。これは湊の入川の両側に杭を打って水路(澪筋)を自由に内港に入れないようにしたもので、やがて剛則の杭は細長い手となり、その現各所で流行しているスーパー堤防と同じように、だんだん茫地を広げていく足がかりになりました。「八町堀」の右側は陸地の造成が進んでいますが、側の方はやっと陸地の造戌が始まったばかりの状況を示しています。そしてこの斜線の部分から左に「築地」という坪寸地か出来て行くのは、1657年以後のことでした。江戸湊の川の中心部を示したもので、収の左側の「八町堀舟人」の先端の右側に、ほかならぬ石川八た衛門の基地があり、その対岸に「みこくしま 石川八左衛門」と、この川島篇〕の〔月島地区〕の最も原形に近い形が描かれています、そしてこの二つの基地の正面に将監の番所があります。この船予の三つの番所の配置を兄ると石川島の職術的な役割がよくわかると思われます。帯は現在の兜町~八丁堀一丁目のあたりです。「高橋」が現在も史跡として石標が残る海運橋の位置にあります。現在の兜神社・証券取引所の一肖が船于の向井将監、以下左に同じく船手の向井右衛門、同じく間宮虎之介高則、つぎに大坂陣の船奉行だった九鬼長門守、船奉行大(小)浜民部(久太郎)、船奉行小笠原安芸守と船手3人、船奉行3人の犀敷が並びます。これらの犀敷は収点の第一線の番所や、遠くは三浦三崎や走水などの番所の後方基地としての役割を持っていたものでしょう。なお小笠原安芸守印敷に綾く石野八兵衛、小笠原内記もそれぞれ船曇に関係するのですが、ここでは省略します。くリ返しますが江戸湊の最初の土地に、幕府海軍の要員の屎敷が立ちならんでいたことは、おおいに注川して良い事柄です。日本橋川河目に二つまたがあった時代をよく描いたもので。その右の向井将監の下屋敷のある島が現在の箱崎です。新堀をへだてた島か幄岸島で、呪在の〔新川地区〕です。この島と茅場町の間のカギの手になった橋の位置が、現在
の霊岸橋に相当する橋で、その下の水面が亀島川の原形です。こうして見ますと図の鎖線からの部分は全部埋立地だということがわかります。先の石川島創生記の項では寛永2年に、八左術門正次か寄洲を拝領したことになりますが、どちらの記録を取ったとしても、後の石川島になった寄洲はずい分“本土”から見て沖合いにあったことがわかります。屏風絵の向井邸前項の第一期の埋立地および図の中の仰にある船手
役の屋敷の有様は町で戸名所図(出光美術館所蔵)では絵画として、かなりくわしい有様が観察できます。