立地は、東京都中央区月島特別出張所管内にある埋立地を中心にした地域です。時代的には、現在知られている限リで、最古の江戸都市図と認められている寛永江戸図、ともいい、おおむね1632年前後の状況を地図にしたものといわれています。そしてこの図集に集めた地図は、各時代を通してできるだけ月島地区の細部がわかるものを選ぴました。またその解説は、この〔月島地区〕に最初に築かれた石川島などできた順に佃島、佃島砲台、明治に入って月島一号(現在の月島1~4丁目)、月島二号地「現在の勝どき1~4」、新佃島(現在の佃2~3)、大正に入って月島三号地(現在の勝どき5~6丁目)、昭和になって月島四号地(現在の晴海l~5丁目)、月島12丁目地先(現在の豊海町)と、つぎつぎに埋立地がひろがり、そこに人々の生活がくりひろげられていく状況を図集の中で再現しようとするものです。現在の月島地区の町名、月島地区の“本土側”の島である佃1~3丁日.月島1~4丁目,勝どき1~4丁目,豊海町の範囲の陸地面積は1,257,617㎡,その東側の晴海1~5丁目が1,003,145mで合計2,260,762㎡、この地区の二つの島の陸地面積です。これを中央区の全面積8,167,060m・との割合で見ると約28%にあたります。参考までに「区役所管内」(旧京橋区から月島地区を除いた範囲)が3,203,283㎡ですから約39%、日本橋特別出張所管内(旧日本橋区の範囲)が2,703,015mで約33%という割合です。
江戸期の地図や文會では、たとえば武州豊嶋郡だとか、石川嶋、田嶋というように、嶋の字を多く使っています。おおまかにいって嶋が島になったのは明治になってからです。この変化は東京を東京と書いた現象と同じようなものだったのかどうか?まだ十分に分かってはいませんが、そのことを承知した上で、資料としての取扱いを優先させる場合は原資料のままとし、解説には「島」で統一するようにしました。外沿革図書(以下〔沿革図書〕と略します)に出てくる、いわば公式な資料にみる石川島と佃島です。まずその内容を紹介する前に、この〔沿革図書〕について簡単に説明しますと、この資料は江戸市中を22地区にわけ、それぞれの地区ごとに普請奉行配下の冪臣によるチームを纒成して、大部分は『延宝年中』(1673~80)に始まり文久2年(1862)までの約200年問の、江戸市街地のうつり変りを調査させて記事とし、さらにそれを地図化したものです。これに掲載した分は「七之部」の「数寄屋橋御門外芝口新橋川筋北之方木挽町築地鉄旭洲辺」の内に含まれます。その最初の部分の記事を紹介しますと次のようです。これではとてもこのまま解説に使うことはできませんので、以下現代文になおして紹介することにします。この島の西の方は、古来からの寄洲②だった。その場所を寛永3年(1626)頃、幕府から石川八左衛門が16,790坪余りの屋敷地として、与えられた。その後、この屋敷地の束南側にだんだん寄洲ができていった。この寄洲の場所16,030坪余を、寛政2年(1790)に、御先手勤役③の長谷川平蔵が加役方④の人足寄場にして、その役所などを建てる計画がきまった。そのため寛政3年(1791)2月、石川大隅守(先祖ははじめてこの寄晟をもらった石川八左衛門)の屋敷は、いったん幕府に返却された。そして石川大隅守は麹町永川町に土地をもらって移転していった。
地所も古来よりの寄洲であったが、正保元年漁師たちは自費で築立てて陸地として、8,550坪の地所を造成した。そこには道や橋もつくリ、二つの漁師町ができた。この漁師たちは元来は摂州(大阪府)西成郡佃村と田村に居住していた人達だが、幕府から江戸に呼び出されて、この地所を与えられ、佃島と名づけられたものであって、その後、地所についての変化はなく、現在まで引続いてきた。東の方の北側の「沼地」を埋立て、明地のままで網干し場として利用して現在に至っている。シティハウス月島レジデンスコートの小学校の学区域は《月島第一小学校》です。施工は歴史と信頼がある住友不動産。