オークプレイス月島

目本令国の大名とその家来が、参勤交替制度によって、婬められたローテーションで始終江戸と各人名家の国元の問を往復していましたし、汪戸中期力とくに発達し始めた商柴の必要から、現在いわれている東京の一極集中よりも、もっと密度の濃い集巾が江戸を中心にありました。また、いろいろなツテで農村から汀戸に働きに出てきた人々も多数をかぞえました。これらの人々の江戸生活に必要なものは、肖而の働き場所や住いをめぐる、大都市江戸の地城に関する情報でした。つまり汪戸市街の構成や地名・町名を知ることが、その都市生活の第一歩だったわけで、そのためにこそ、多くの地図や珀案内・名所旧跡の解説、飲食店や買い物や遊び場所のガイドブックが必需品だったのです。
 こうした事情は、江戸に長く住んでいる人々の場合も同じで、絶えず変化を続ける犬都市江戸のいろいろな情報は、巾民の日常生活にとって欠かせないものだったのです。前おきが長くなりましたが、ここで紹介する江戸名所図会は、アメリカの黒船が江戸湾に入ってきてから始まった、いわゆる墓木の動乱期の直前ともいえる天保9年(1838)に成立しています。その意昧では平和吽の江戸の地誌の総まとめ的な性格を負わされた地誌でもあったわけです。著者は神田雛子町(千代田区内神川)の名主の斎藤幸雄幸孝一幸成(月岑)の親子三代がかりの労作です。名主の役目の内容は、現在の特別区の区長の職務内容と基本的には変わリないものでしたから、この本の序文にも明らかに書かれているように、都行政の第一線の責任者力札円滑な公務をつとめるための〔広報〕の必要性を痛感して、このような地誌を位置づけたものだったともいえます。また図会というタイトルが示しているように、この地誌には長谷川雪口という画家が書いた、現在から見ても非常に正確な汪戸風景が、数多く掲祓されているのも大きな特徴でした。ここで直接江戸名所図全の佃島・石川島の記事を紹介する前に、まずこの二つの島をめぐる環境や位置や交通の関係を図会の絵で眺めることにします。4ページ分の絵をつなげたのもです。こうして児ますと冊子の中で分断されていた風景が、まるでパノラマ写真を兄るように、新鮮な構図となって見る眼を楽しませてくれます。画家の眼は偶然にも現在の中央区役所庁舎上空あたりに据えられていて、正面に件古神社と佃島、その左の木立の多い部分が石川島です。佃島の右の方が“江戸前の海でうまい魚をとる舟が見えます。右端の遠くが品川湊です。石川島の左側が八町堀(桜一川)妬川・大川の合流点で、ここを三又と呼びました。霊岸島の越前の福井藩邸で、その築山は④の湊稲荷社の富士山と一対になって、江戸湊の入津船(人港船)の旧二叉には多くの廻船が停泊していて、江戸の物流の盛んたったことをしのばせます。眼を水平線に移すと、はるかに安房・上総の山なみがみえるどいう、雄大なパノラマがくりひろげられています。さらにくわしくは絵と各番呼を対照させて下さい。なお、この広大な江戸湾に宝井其角のという句があります。名月の下のこの維の光景は表現しきれないほど、美しいものだったことが察せられます。[1573~9]に徳川家康がまだ遠州浜松城主だった頃、京都に旅行した際、摂津国多田御廟に参詣した時は、佃村の漁師の舟を利用した。またそののち伏見城で政務をとった時期にも、食糧としての鮮魚の供給や西国への連絡の使いには、必らず佃村の漁師した。大坂冬・夏二川の戦争の時も、軍事の密使あるいは御膳の鮮魚の供給は、佃村の漁帥が怠ることなく奉什した。その後、佃村の漁師34人を江戸に呼ぴよせられ、慶長年間(1596~1614)に浅草川遊猟の時、網を引かせたりした。慶長18年(1613)8月改めて佃村の漁師に対して海川漁猟の免許を与えた。その頃までは、安藤・石川両侯の藩邸があった今の小石川網干坂、小網町・甦波町などに、佃村の漁朗が旅宿していたという。だから難波町には今も六人河岸という所があり、六人網と名付けて彼等の河岸にしているという。寛永年問にこれらの漁師は鉄俎洲の東の干潟百間四方の場所を墓府から貰った。そして止保元年(1644)2月に漁家を建てならべ、本国佃村の名をとって佃島と名付けた。その時に将軍から白魚をとって献納することを命じられたので、漁のシーズンである11月から3月までの間、江戸前の海と隅田川河口一帯は佃島の猟師の独占的な猟区に指定された。その後、深川八幡宮の前の空地三千坪(現在の江東区牡丹町)を賜わって、佃町と名付けられた。町からの収人で白魚だけでなく将軍の口常の「御菜魚」の納入もするようになった。ある人の説に、この所(佃島のこと)は始め安藤右京進の屋敷のあった場所で、いまの住占神社の境内に繁茂する。安藤家の時代に植えたものだという。広貢という本には、佃島は紀州賀多(和歌山市加太、むかしから漁業で有名)の漁人雑居し、 一島の人は全部が本願寺宗で、他の宗派の人はいないという。