セントラルフラッツ 外観
セントラルフラッツ

そのような場所の具体的な地形は、河川の河目部の人江になっている所です。いいかえると川と海の接続同所のことです。このような場所は、世界中で人片から水運のための船付き場に利用されてきました。関東地方に限っても茨城県には現在でも千葉県には天汁小湊などの湊のつく地名があります。束京の範囲にも、束京湾に面して浅草湊り江戸湊・品川湊などがあったことも知られています。おなじ「みなと」でも、今普通に仙われている「港」という漢宇の意味は、舟付き場または船を岸につなぐ施設そのものを指しました。いうなれば港は湊の一部分だった時代もあったわけです。江戸湊の弱点は、いうまでもなく江戸湊は隅田川の河川湊です。いまの隅田川は関東山地に水源を発する人間川と、利桐川の支流が浅草湊の所で合流して海に注ぐものでした。ところがその人間川に寛永6年(1629)に、これも関束地の秩父から流れる荒川を放流する川が実現しました。この埋山は関束山地と江戸の間の水運を確保することにありました。このような河川水運の開発として、人坂と江戸を結ぶ日本列島規模の千石船を中心とする入り船による廻船も着々と塀術されて行きました。しかし江戸湊は、内陸部の川とくに荒川をつけ替えた。本来の砂の堆積に加えて荒川の分だけ余計に流人を引き受けることになりました。江戸湊における大型の廻船の泊地は、はじめは石川島の西側と霊岸島、現在の中央区新川地区の間でした。ところが後に、その遥川は一面に浅くなってしまい、人型船は佃島から芝浦あたりを行き来したが、沖まで入るのがやっとという状況になったことが、彼の風景画の中に描かれています。関連するのですが、ペリー艦隊がとまリで、品川や江戸に直接来られなかったのはこの江戸湊が浅くなって、吃水の深い蒸気船ではとても入ってこられなかっことにあります。いったん退去した後で、政府はお台場に砲台を急造しますが、その配置は全体からみますと非常に雑に造られています。つまりお台場が集中している海域は、隅田川の旧河道の場所でした。この河道の部分が、川の海底にくらべて深かったのですが、それもあってペリーの艦隊がこられなかったのです。このような事情で、江戸湾は使いものにならない湊になっていました。その深い蒸気船が登場しはじめると、水運訓吉は的になり、人型船はすべて海底の深い横浜を利用するようになったのです。このような江戸湊~束京湊の最大の弱点である遠浅の事態を解消することは、束京の経済活動の中心だった「束京財界」を構成する人々にとっては、これまた最人の関心だった。

 江戸を近代部、束京として、どのように発展するかは、財界だけではなく広く政治的な問題だったことはいうまでもありません。より直接的にいえば東京湾内における港湾の位置を、横浜に好われたための舞台が、束京の港湾問題でした。束京府知事が横浜の繁栄を束京に移すという視野で開発を検索しはじめたのです。