コージー・コート月島 外観
コージー・コート月島

 一説に森孫右衛門が佃村、大和川村の漁師30余人を引き連れて江戸に来住したのは1612年であるとする。ここで引用された史料はすべて綸代に作成・編集されたもので、信憑性に乏しいものといわざるを得ない。
傍点は数多い佃島の草創期の伝承や記録を否定しています。そして佃島の災害や漁民の活動や漁民との紛争、漁法の変遷などを。これも後代にまとめられた公文書を中心に紹介したのちに、つぎのように結んでいます。
徳川将軍家の強力な援助のもとに、つねに先進的漁法によりその発展は他浦漁民を凌駕してきた。このため江戸湾漁村からの反感を受けてきたことは催かであり、孤高を傑つために政治的な動きもみられる。一方、漁民ほ自ら漁法の改良工夫をしなければならなかった。弟九左衛門忠兵衛をはじめ一族七人、佃村、大和村の漁師を合せて日本橋漁業としていた。この頃、摂州地方の漁師が江戸深川元町へ移住し、ここで洽業を営み徳川家へ魚を献上、その賞として、現在の佃島漁民のおかれたデリケートな箇所についてふれています。文献に見る佃島ついては、23種類の文献とその著者およぴ刊行年をあげ,各書の佃島に関する記事を抜き紹介しています。ここにそのおだけを並べてみると次のようなものでした。この中の最もボビュラーな資料に土戸所図会、がありますが、同會の佃島・石川島関連の記すでに紹介ずみでありますから、ここでは束京都の報応書では一刀両断に衣定された“伝承”の中から漁村としての佃島成立のいきさつを、具体的に書いたものである望海毎統の記事を紹介してみます。共佃鳥〔大坂の佃村のこと〕の魚を大坂より御膳に、何とぞ江戸へも息参りすればよか。つまり徳川家康が滞在中はその食事の魚はすべて彦作という者が川でとっていた。家康が江戸に移ると彦作も江戸川の魚をを持っていた。転勤して船手役に就任し、のちに石川島と呼ばれた島を引領してそこに固住していた。この石川の顔兄知りだった彦作は、石川島を通じて将軍家の魚専門としてつとめたいと申し出て許された。はじめは石川島の石川家の門前を使って漁をしていたが、彦作が大坂佃村から猟師を20人ほどよびよせて、本格的に始めると狭くなったため、隣りの洲を段々に築き出して、やがて今の佃島にまでした、ということが言かれているわけです。通説的にいえば家康の特別な信任を受けていた火坂佃村の漁民とは、森孫右術門を長(この場介は庄削または名主)とする漁民だったわけですが、視点をずらせて、彦作なる個人に当てています。
 そしてこれも完にみた船の石川との関係を、船手頭の石川と彦作との関係とし、彦作の江戸移住も、人坂時代の二人の関係の延長とみています。さきの「石川島創生記」の項で兄たように石川も次が船手になったのが寛永2年(1625)柳営補任、では寛永9年のことですから、彦作の江戸への移住はそれ以後のことになリます。彦作が家康と特別の関係があったにしろ、家康は元和2年(1616)に没してしまい、ほかならぬ寛永9年には2代将軍秀忠も没し、三代将軍家光の時代に入っていました。家康はその死の前年の大坂夏の陣(元和元年=1615)まで大坂で暮らしていました。その時点から彦作が江戸に来た時期との間には、石川正次の維歴からみますと寛永2年で17年問の歳月がたっています。ここで結論を出しますと、大坂の佃村漁民が集団的に江戸に移住してきたのは、家康の時代ではなく、秀忠の時代でした。それは汀戸城の内郭の建設が終り、その城下にまとまった規膜になり、視覚的にいえば寛永9年当時を築いたものといわれる。江戸が成立した時期に、はじめて産業としての漁業要員か移住を許され、佃島も成立したものとみることができます。深川地区の開発と繁栄の中心である富岡八幡宮の門前町は、現在でも門前仲町という駅おがあるように、この地域の要の役割を米たしている。この門前町のすぐ南の蓬莱橋を渡った俗称「海」と呼ばれた堤妬地が。島の人々に関係するようになった。なぜこの俗称「海」には佃町が佃島の人々と関係するようになったかというと。家康以末の猟師町としての佃島に八代将車吉宗の代になってから、急に増税された結果でした。税金といいいましたが実際は将軍家が消費する鮮魚と、特に白魚の現物を納人する役務のことで、もちろん無憤で定められた時期に定められた量を提供しないといけないものでした。当然それと引き換えに海域を中心に、漁のための独占的な漁区が設定されたことはいうまでもありません。さらに将軍家に納人したあまり一般人に販売する権利も認められていて、この権利に後押しされて日本橋の魚有名になります。吉宗による増税の内容は佃島の漁民に、押網は地引網より少し大型の漁網という網を使わせて、それまでよりも多い漁獲と納人を心じたものでした。