クレイス月島キャナルフロント 外観
クレイス月島キャナルフロント

地図の時代、これまでにこの沿革図集の資料についての解説で、くりかえし述べたことなのですが、江戸時代、とくに江戸の場合は、非常に多種類の地誌と地図が人量に刊行され続けたことが、一つの特徴といっても、決してオーバーではない状況がありました。そして地図に限っても、幕府直営事業による『御府内沿革図』をはじめ、民問のそれぞれの需要に応じた一般市版はさらには江戸の都の行政の基本的な資料としての各町の訪券図なども作成されています。それらの一枚一枚ごとに、それぞれ独自な編集方針があったことは、いうまでもありません。しかし現在、そうした地図を利川して江戸時代の実情を知ろうとする場合、たいていの場合浅い内容しか知ることはできません。町の情報ですが、ひとくちに大都市江戸といってもその市街地の構成には以外のものがありました。将軍の城下町としての江戸は、江戸城をはじめ、将軍の直接の家米である旗本・家人たちの屋敷と、人名たちの屋敷が集中する場所でした。
 これらの場所を武家地と呼んだのですが、時代にもよりますが市街地の約70%を閉めていました。将軍家である寛永寺・護岡寺などの周辺要所に配置した寺町と、神村を合わせた寺社地の面積の割合が約15%でした。そしてこの江戸における都の部分そのものである町地の人部分が下町と呼ばれて、現在の中央区と千代田区に集中していたのです。しかしひとつの町かぎりに描かれた訪券図は別として。江戸時代の江戸市街図のほとんどは、町地についてはその町名だけを示しているだけです。
もちろん例外的に市政の機関だった町年寄や名主の居宅が記入されているものや、ある川の通称の道路の名などが示されている図もありますが、武家や寺や神社のように、具体的にその町の住民の明らかにされているものは無かったといってもよい状況がありました。中村図ではところがこの中村図では始めて町地に立ち入り具体的に江戸の状況を復元したのです。これは、江戸期の江戸図には見られない、まさに新しい江戸の発足を意味するものといえます。編集経過の「あとがき」に、たとえば「水系の復元の不可さは約90%、町地関係地割の復元の正確さは約85%」だというように、編集者白身が、自分の作業の成果を客観的に評価している点も、この図の内容の正確さといえます。
 さきに述べたように編集経過報告の次に従って、簡単にその内容を紹介することにします。腫類のそれぞれの表題・著作者・所蔵者(機関)などを細かく挙げて、作業上の資料の「公開」をしています。こうした基本的な方針の決定の後、基本図制作作業つまリ、約150年一前の江戸下町の地形の忠実な復元作業の説明があります。その基本図の上にくり返しますがこの図が現在では汀戸の下町の町人居住地に関する地図としては、最も情報の多いものだということができます。